小林牧牛の世界

              

陶人形作家としての歩み

リストラ

長年勤めた会社も市場の激しい変化に追いつかず不況の荒波にみるみる会社は傾いていきました。

リストラが始まりました。
40歳以上の社員は、役職に関わらず全員退職の対象になりました。

いつかはこのような事態になると予測してましたが、船に残るか海に飛び込むか、どちらにしてもこれからの生活のこと、家族のこと、家のローンのことを考えると不安が膨らんでいきました。
ほとんどの社員は、不本意ながら飛び込むことにしたのですが、反発して飛び込むことを拒んだ者は、後で聞いた話ですが結局は荒海に突き落とされたということでした。

「今がだめでも、努力すればいつか最高の転機が訪れるよ。」

小林牧牛
小林牧牛

いよいよ荒海に飛び込む

いよいよ荒波に飛び込む日が訪れました。

暗闇の冷たい荒海に飛び込んだ時、泳ぎ方を知らない僕は暗い暗い海の底に沈んでいきました。
海の底からもがきもがきながら、やっとのことで海面にでましたが、急いで泳ぎを覚えないと溺れ死んでしまいます。
人間生きるか死ぬかの瀬戸際に立つと、自分でもわからないエネルギーが出るようです。

陶人形作家として、飯を食っていこうと決めました。

でも、うまくいくという確信などありません。
具体的な見通しがあるわけではなかったのです。

「やればわかる」




決心

この決心が大変なことになりました。

妻を筆頭に両親、兄弟、友人、私に陶芸を教えてくださった先生までも賛成してくれる人は誰一人おりませんでした。
今、私の子供から陶芸家になりたいと相談されたら、私も大反対するでしょうから無理もないことです。
このような状況のなか、大変なプレッシャーに押しつぶられそうでしたが、この世界で生きようと決めたからには、どんなことでもしようと心に固く決めたのでした。

まず、私が作った陶人形を売ってくださるお店を捜さなければなりません。
そこで、現役の陶芸家に日本で一番難しい場所はどこか聞いたところ、京都は閉鎖的で他県の者はなかなか受け入れてくれないので、あそこは無理だと冷笑されました。
「京都は名もないものが行っても交通費が無駄になるだけだからやめとけ」と言われましたが、このような難しい場所で取引できれば、後はそれほど苦労しなくっても全国に広がっていくんではないかと考え、京都に行く決心をしました。

「諦めたらここでおしまいだけれど、諦めなければそこから始まる」

行動

後は行動に移すのみです。

でも、取引条件はどうするのか、どのようにして置いていただくのか、全く分かりませんでしたので、なかなか行く勇気が出ませんでした。
この道でやっていくからには、どんなことでもしてやろうと心に固く決心したにもかかわらず、最初の一歩が出ないのです。

このハードルを越さなければ先がないのは分かってます。
私のひ弱な精神を何とかするために、周りの人々に「京都に行って飛び込み販売をする」と触れ回り私自身を追い込みました。
当時は不景気の波が少しずつ押しよせてきてましたが、個展を開催すればそこそこ売れる時代でしたので、私の行動を陰で中傷する作家もいたようです。
もうこれで行かないわけにはいきません。

「今も昔も変わらないこと。今日やる明日やる、そのうちやると言ってやった奴はいない。」

ゼロからの出発

なにもかもゼロからのスタートで、孤軍奮闘の始まりです。

二月と八月は観光客が少ないという情報を得て、決行日を八月と決め旅行カバンに陶人形を五体入れ、以前観光で何度か訪れて土地勘のある嵯峨野に降り立ちました。

まず、嵯峨野の端から端まで歩き大きく立派な構えのお店を手帳に書きとめて、いよいよ飛び込みを始めようと思ったのですが、お店の中にどうしても入れないのです。
お店の前を行ったり来たりです。
お店の中にお客さんがいると、恥ずかしく足がすくんでしまいます。
でも、これをしなければ先に進むことが出来ないのです。
私にとって最初の試練です。

「辛いことも将来の自分に必要なこと」

飛び込みセールス

覚悟を決め、意を決してお店に入りました。
店員に人形作家であることをあかし、人形を見ていただきたいと告げると、「しばらくお待ち下さい」と主人らしき人に耳打ちをして、すぐに私の元に戻ってきましたが「ただいま主人は留守なので分かりません」という返事が返ってきました。
私はなんとかこの場から離れたいと、挨拶もそこそこに小走りでこの店を後にしました。

気を取り直し、次の店に入りましたら「昔からこの地で商いを続けている老舗で、どこの誰だかわからないものがくるところではない」と怒られてしまいました。
こうなると、お店を選んでいるわけにはいきませんので、片っ端から飛び込みを続けましたが、どこもかしこも帰ってくる返事は同じです。

人形を見てくれません。
その日は、特別京都特有の蒸し暑さのため、全身汗でずぶぬれです。
意気消沈で遅い昼食をとるために蕎麦屋さんに入り、席に着いたのですが水も出してくれません。
後から入ってきた老夫婦には、すぐに水を出して御用を聞いております。
それからしばらくして、やっと水を持ってきてくれました。
大きなカバンを持ち全身汗だくの意気消沈した姿が異様に映ったのでしょう。

「人生いろいろあるから成長する」

初めての取引

もう、破れかぶれです。

体裁などどうでもよくなりました。
いろいろなお店に飛び込み、お取引をお願いしたのですが、どこもかしこも人形をみてもらえずに日も暮れて、鉛のように重く感じるカバンを持ち帰途のバス停に向かいました。
泣き出したい気持ちをなんとか抑え、とぼとぼと渡月橋まで来ましたら、まだ飛込みしていない和風の洒落たギャラリーがあるのに気づき、吸い寄せられるように店の中に入りました。

レジにオーナーがいて、陶人形作家であることを告げると、その日初めて人形を見てくださり、少し様子を見るので作品を送ってくれと言われたのです。

初めての取引です。
嬉しさより商売の厳しさをつくづく感じたものでした。
あの時、体力も気力もなにもかも消耗しきっていたにも関わらず、どうしてお店の中に入れたのか今考えても不思議でなりません。

翌日は、京都市内の飛込みをして、運よくもう一軒取引先が決まり、二軒のお店で人形を取り扱ってくださることになりました。
この後も、書店で観光雑誌を見ては、ここぞと思うギャラリーの住所を手のひらに書き、飛び込みを続けていましたら、だんだんと取引先が増えていきました。

「答えはいつも現場がおしえてくれる。」


心の深い傷

こんなこともありました。

銀座で女性客の多いお店を見つけ、お取引をお願いしようとお客様が途切れるのを待ち、何時間も外で待っていたのですが、途切れる様子がありません。
日もどんどん暮れてきましたので、意を決して店の中に入り陶人形作家であることを告げましたら、えらい剣幕でオーナーらしきおばあさんが出てきたのです。

そのときに店の中にいたお客さんたちが、一斉に私に向けられた蔑むような目つきが、今でも脳裏に深く傷として刻まれています。
いまだに、そのことを思い出し何故あんなに怒鳴ったのか分かりませんが、帰り際に若い店員の方が小声で謝ってくれた言葉に救われた思いがしました。

怒りの言葉は、人の心を破壊するエネルギーを秘めています。
優しいいたわりのある言葉は、人の心を慈悲で包んでくれることを学びました。

「会えてよかった、そんな人になりたい」

初めての取材

飛び込み販売は辛かったですが、いいことも沢山ありました。

読売新聞の編集部次長と名乗る方から、ある日突然電話があり休みの日に取材に行きたいとの申し出がありました。
京都で人形を見て、個人的に取材に来てくださったのです。
お話を伺うと、普段はデスクワークで何十年ぶりかの取材だと言ってました。
長崎のカステラの取材が終わっていて、掲載されるかどうか分からないと言うことでしたが、それから程なく全国版の新聞に私の人形の写真と記事が大々的に報道されて大いに驚きまた。
あのとき、辛かった京都の飛び込み販売が報われた思いがしました。

新聞に報道された日から三日ぐらいたった頃、全国から手紙がポストにも入らないくらい分厚い束になって毎日毎日送られてくるのには、驚くやら嬉しいやらで仕事が終わった後、夜中の二時、三時まで返事を書いていたことが懐かしく思い出されます。
町の役場にも連日、問い合わせの電話が鳴りぱなしで大変だったようです。

「幸福と不幸は、振り子のように行ったり来たりする」

不思議な出会い

飛び込みで高山に行ったときに不思議な経験をしました。

例により人形を五体持ち飛込みをしていたのですが、まだ新しく立派なたたずまいのギャラリーが目に飛び込んできました。
場所も中心街ですので、早々中に入り店長に人形作家であることを告げ、お取引をお願いしましたら、驚いたことに人形を見ていただく前に「あなたをまっていました」と言われたのです。
私が来るのを待っていたそうです。

鎌倉にあるギャラリーは、私がサラリーマンを続けていたら一生ご縁がなかった様な人々とのご縁を結び付けてくださいます。
縁結びです。

和歌山にあるお店は、いつも私にエネルギーをくださいます。
電話でお話をしているだけなのですが、一生懸命さが伝わって私も頑張らねばと気力が湧いてきます。
言霊には波動があるのです。

「いちど結んだご縁は大切に」

サイン会

それからこんなこともありました。

私の初めての本が出版されてまもなく、出版社の編集長から三省堂の本店でサイン会の申し出があるがどうするかという電話がありました。
「私のような無名の者がサイン会をしても、わざわざ来てくださる人はいませんので、お断りしてください」と返事をしましたら、後日出版社の社長からやりたくともやれない人が沢山いるのに、断ってはいけないとお叱りを受け、お受けすることにしたのです。
三省堂も、当の出版社も、もちろん私自身もお客様が来てくださるとは誰一人思っておりませんでした。
三省堂から「サクラ」は何人ぐらい必要か出版社に問い合わせがあったそうです。
そのとき、腹が立ち思わず「その必要はありません」と返事をしてしまったと後日編集長から聞きました。

いざサイン会の当日がきました。
誰も思ってもみなかった奇跡が起きたのです。
暑い中、何時間も前から沢山の人々が列を作り、サイン会が始まるのを今か今かと待っていてくださいました。
その列は三階まで続いていると担当者が知らせてくれました。
歴代二番目の記録だそうです。
つくづくお客様のご縁は大切にしなければいけないと心に深く刻みました。

「よき出逢い、よきご縁、よき人生」

運命的な出会い

運命的なご縁もありました。

ある日、九州の女性から電話があり、これからギャラリーを開店するので京都で見つけた、私の人形を置きたいという事です。

ちょうどその頃は、生活を安定させるため、そく売り上げにつながるギャラリーを開拓している時期で、九州の湯布院にも飛び込みに行く準備をしていたときでした。
話を聞けば、まだお店はなく経営に関してはど素人です。
これは絶対にお断りするしかありません。
でも、ひょんなことから私の家に来ることになってしまったのです。
それから何度かお会いするうちに、お取引をすることに決まり、あろうことか九州全部をお任せすることに話がまとまりました。
当時は、これで九州はダメになってしまったと本気で思ったものです。
しかし、ご縁とは摩訶不思議なもので、今では私がいろいろな面で助けていただいておりますので、九州をお任せして本当に良かったと感じてます。
私にとってなくてはならない必要なご縁だったのです。

ご縁を織りなす糸は、複雑に絡み合っているのです。

「みんなが、見えないところで支えてくださる」

ご縁の輪

お地蔵さまを通して、世界中の沢山の方とのご縁の輪が広がってますが、誰一人として悪い方はいないのです。
初めてお会いした方でも、旧知のごとく心が通じ合えます。
私がこうして生きていられるのも、沢山の方が見えないところで支えてくださり、ご縁によってご縁に生かされているからだと思ってます。

皆々様とのご縁がいつまでも続きますことを切に祈ります。

「嬉しさ、喜び、そして笑いひとりより皆と一緒がいい」

小林 牧牛 拝
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